小説を書くほか、いろいろ思ったことを書いています。
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このところ、ある理由で精神科に通っている。アスペルガー症候群の対応中心の発達障害の専門外来だ。

長いこと、それこそ、十年以上、二十歳前後の頃から、自分のコミュニケーションの問題とか、異常に疲れるとか、人の声がただの音に混じって聞き取れなくなってしまう事とかに頭を悩ませてきた。

コミュニケーションの問題でいえば、雰囲気とか相手の感情とかを読みとることに不得手を感じていた。
学生時代にひどい失恋をした事があったのだけれど、おそらく、その時、僕以上に相手の方が、何倍も何倍も傷ついていたと思う。そのとき僕のした事を、今でも僕は許す事ができない。このときの挫折については、単に恋愛とか人間関係の問題だけじゃなくて、そのとき真剣に取り組もうとしていた、小説を書くことについての挫折でもあった。
僕は自分の書いた小説で、好きだった人のことを回復不能になる寸前にまで精神的に傷つけてしまった。自分が書いた文章を使って、大事にしたい、大事にするべきだったと思っていた人に暴力を振るってしまった。そのことは、一生許されたいと思わないし、絶対に繰り返したくない。もし同じ轍を踏むのであれば、僕は自裁すことを選ぶ。

いっぽうで、その事件から、自分が他の人の、あるいはときに自分の感情にすら無頓着なんだ、ってことに気がついた。感情を認知する力が、言葉や論理を操る力に比べてあまりも低いということに。人の気持ちがわからない病。もしそういうものがあるとしたら、どういう病気なのか。
「人の気持ちなんて、わからないものよ。」よく、世間の人はいう。いうけれど、そう言ったその同じ口が、次には「あなたは人の気持ちがわからない人なの?」と責める言葉を放たれる。自分の言っていることが矛盾だらけだということに気がつかないかのように。でも、単純にその言葉をそのまま受け取れば、世間のほとんどの人たち。。。つまり、神経学的定型発達の人たちは、あるときは人の気持ちがわからず、あるときはよくわかっている。そして、基本的には後者の比率が高い。相手が自分の気持ちを理解してくれないと、責めるのだろう。
ほとんどの場合、日常生活では、「共感」は様式化されていて、定型発達者同士でも精神的にエネルギーを消耗する生身の共感を行うことは少ないのだとは思う。わからない、と言われるときの気持ちって、この様式化された共感から乖離しているのかも。どっちにしても、いまのところの僕の観察では、様式化・標準化された「共感」の基礎には、自然に成長の過程で人が身につけるプリミティブなそれがある。

僕に欠けているのは、その基礎的な共感の能力だと思っている。人の感情を理解する力がない。初めてそこに気がついたとき、僕はほとんど恐怖に近い感情に囚われた。むしろ、人はわかりあっているものだと漠然と思い込んでいたから。けれど、当たり前に誰でもが普通にやれていることができないなんて、発狂しているんじゃないと思った。人の視線がひたすらに恐ろしく、けれど、家に引きこもっていれば、家族の視線に身を晒し続ける羽目になるから、どこにいても、どこにもいることができなかった。(続)
 カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を先日、読了。

 この小説は結末を知らないまま読んでもらった方がいいかな、とも思う。もっとも、作者も、この小説の世界観のことを冒頭からほのめかしているのだし、あるSF慣れしていたり、あるいはそうでなくても勘の良い読者なら、なにが起きているのかをある程度先読みしながら読むことはできると思う。
 この小説にはさまざまなおもしろさや身を切られるような切実さが詰まっているけれど、僕が一番気に入っているのは、ひとと関わって生きていくことの切実さ、その部分だ。

 人をもとめることの切実さって、愛してる、とか、大切にしてる、とか、そういう一言にすべて込めることができないことだと思うのね。それが切実であればあるほど。

 僕じしんは、僕以外の人のことはけっこうどうでもよいと思って生きているというところはあって、切実に誰かと関わりたくなった経験が希薄。もしくは、それが長続きしない。そのかわり、一度そういう切実さを感じた相手にはなにがしか、執着が残っていたりする。あるいは、もっとも気持ちの強かったときの「大切にしたい」という気分の残滓が残っていて、その延長で「いま幸せになってくれていれば、僕のことを嫌っていても忘れていてもかまわない」という形で、一方通行のまま気持ちが生きていたりすることもある。

 誰かを好きになるって、その自分の気持ち全部を相手にぶつけたりするとうまくいかない。どれほど強く想っても、それは僕とあなたがどこまでも別の人間なのだから決して共有できるわけではないし、たとえ何かが一瞬共有できたように感じたとしても、それは二者の脳神経のシナプス発火がそういう幻想を見せただけなのだとおもう。その幻想の美しさにあこがれて僕はまた人を好きになるかもしれないし、そうならないかもしれない。ただ僕は、そのあこがれがただの条件反射のようなものとか、遺伝的条件付けに誘導された選択だとは、絶対に考えたくない。僕は僕だ。どこまで行っても、一人のけものだ。

「わたしを離さないで」を読み終えて思ったのは、僕もまた「ヘールシャムの出身者なのではないか」ということ。何かの目的のために生きる意味を限定されて生み出されたのではないけれども、何かに縛られていること、周りの人との間に違いを感じながら生きているということ。

 僕の生き方とか、生まれた理由、好きなものとか、誰かを大切に思う気持ちとか、そういうことが、「作られたもの」でしかない、としたら。そう思うと、僕は胸が締め付けられるように思う。現実には、僕はとりあえず何かの目的のために作られた存在ではない。
 それでも、やはり僕には身につけてしまった価値観とか、人との関わり方の癖とか、生まれつきの特性とかの、目に見えない鎖のようなものがたくさん絡みついていて、それをいま、すこしづつ見えるようにしたり、できることならそれを解いていきたいと思っている。その先になにがあるのかわからないし、もしかしら年齢的にとても遅くて幸せになるには間に合わないのかもしれないけれど、それでも、僕は鎖に縛られたまま生きていくのは、もう絶対に嫌なんだ。
 だから、僕にとってありがたいと思えることは、そういう「縛り付けてくるもの」を自分で見えるようにしていけるかもしれないこと、そしてそこから自由になれる可能性をまだ残されているかもしれないということだ。

 ヘールシャムの話に戻ろう。

 人と関わりたいという気持ちって、不思議なものだ。
 愛情? 怒り? 悲しみ? 喜び? そういうことじゃない。
 そういう、いろいろな感情がお互いに抱きしめあって、複雑な色をして存在している。現実の人間関係の複雑さとはまた別のありかたをしていて、だからこそ、その混沌とした色合いのすべては伝えられるものではない。混沌として、様々な色が混ざったアマルガムのような感情ほど強度があって、また美しくもあるけれども、それはそのままでは誰の手にも渡すことのできない、奇跡的に発生した天然合金の原石のままなんだ。
 だから、もし、気持ちを伝えたいと思う相手がいるなら、そのすべてを打ち明けてしまいたくなるかもしれないけれど、本当に大事なことは、必ずしも「伝える」ことじゃない。ひとことにまとめきれない原石のようなその気持ちを自分の手から離してしまわないこと、自分自身をどこか遠くに離さないこと。とても大切におもうひとであるなら、そのひとを失わないでいるためには、その原石をうしなってはいけない、ということ。もしも打ち明けてしまったのなら、それを相手がどう育ててくれるか、とても慎重に見守らなければならない。
 誰かに向かって言うわけではないけれど、僕はこの原石だけは大事にしていきたい、と思っている。もしかしたら、これが最後になるのかもしれないのだし。